概要 †
- 医学部には他学部と異なり「格」という概念が色濃く存在。これは、医学部が設立されてきた過程で、設立の古い医学部が臨床、研究面で主役を担ってきたことに起因。古い医学部は、その地方の医療を県を超えてカバーし、新設医学部ができたときには指導的立場を担ってきた。医学という学問が経験とそれに対しての分析を極めて重視するという特徴から、歴史のない医学部はどうしても古い医学部の後塵を拝するしかないのである。そのため、偏差値では計ることのできない「格」が存在。
- 格の高い方が関連病院や研究費の割合は大きい時代もあったが、現在では人口の変化や新設医大も設立後だいぶ時間が経ったことにより必ずしも歴史のある大学が勝っているとは限らなくなっている。
- 現在の大学受験生が医師になって働き盛りとなる20年後〜40年後には医学部を取り巻く状況は現在と様変わりしている可能性が高い。人口激減に伴う医療需要の減少により、国公立大学医学部が統廃合されるのは間違いないであろう。その場合には各地域の旧帝医や旧六医が中心となって統廃合が起こり、医療需要激減地域の新設国立医は医師養成の役割を終える可能性がある。
- 旧帝医や旧六医以外でも神戸大学や広島大学のように近年勢力を拡大しつつある大学もある。
格付け †
歴史のみで格を付けるとしたら以下のようになる。
順 | 分類 | 大学 | 設立 |
1 | 旧帝国大学 | 東京大学(帝国大学→東京帝国大学) | 1886年 |
京都大学(京都帝国大学) | 1897年 |
東北大学(東北帝国大学) | 1907年 |
九州大学(九州帝国大学) | 1911年 |
北海道大学(北海道帝国大学) | 1918年 |
大阪大学(大阪帝国大学) | 1931年 |
名古屋大学(名古屋帝国大学) | 1939年 |
2 | 旧六医科大学 | 新潟大学(新潟医科大学) | 1922年 |
岡山大学(岡山医科大学) |
千葉大学(千葉医科大学) | 1923年 |
金沢大学(金沢医科大学) |
長崎大学(長崎医科大学) |
熊本大学(熊本医科大学) | 1929年 |
旧制公立医科大学 | 京都府立医科大学 | 1921年 |
3 | 新制八医科大学 | 医歯,弘前,群馬,信州,広島,鳥取,徳島,鹿大 | 1946年 |
5 | 旧設公立医科大学 | 札医,福島,横市,名市,岐阜*,三重*,神戸*,阪市,奈良,和医,山口* *後に国立大学に移管 | 1946~1950年 |
6 | 旧設私立医科大学 | 岩手,順天,昭和,東医,東邦,女子,大医,関医,東邦 |
7 | 新設医科大学 | 旭川,秋田,山形,筑波,山梨,富山,福井,浜松,滋賀,島根,香川,高知,愛媛, 大分,佐賀,宮崎,琉球 | 1973~1979年 |
関連病院 †
- 関連病院が多いことで、若手の頃から様々な病院に派遣されて勤務することができ、技術や経験を積むことができる。さらに大学病院に勤務するよりも関連病院の方が給料は高く、およそ3倍程度。(大学病院週6日450万、関連病院週6日1200万)。関連病院の少ない医局であると、大学病院勤務の期間が長くなり、金銭的なデメリットにもなる。ただし、研究を主目的としている医師は大学病院を好む者もいる。
- なお大学病院の医師は週全て大学病院で勤務しているわけではなく少なくとも週1-2日程度外勤に行っており、また医局が時間単価の高い外勤先を持っていることが多いため、実際の収入の差は上記より小さくなる。また外勤制限の無い医局だと市中病院より収入が多いケースがあったり、例えば都立病院などのスタッフは原則外勤禁止のため大学病院より低くなりがちという例外も一部存在する。
- 関連病院が豊富にあることで関連病院のポスト(診療部長など)に就任できる可能性も高くなる。少ないと大学でのポストしかなくなり、上がつかえてくる。そのため、医局員は医局を辞めて民間病院へ行く。とすると医局が縮小していく流れになってしまう。民間病院へ行くということは医局の庇護がなくなるということであり、自由ではあるが自身の力だけで出世していかなければいけない。医局で役職ポストを確保していれば医局員で順に回すだけである。

- 医師もやはりサラリーマンであり,役職手当がつかないとたいして稼げるわけではない。
- 「副院長」と「医師」を比較するとよくわかる。「副院長」クラスになると時間外手当は減っている。つまり当直等の時間外勤務は減ると言うことである
- 旧帝大の持つ関連病院は多いが、複数の県にまたがるため、局所だけをみると、地元の旧設国公立の方が多いこともある。例えば、京都府内を例にとると京大よりも京府医の方が郊外を含めた関連病院は多いが、京都市や大阪市・大津市といった近接した大都市の高ランクの病院となると京大が圧倒している。旧帝大でも支配エリア外に転勤になることは原則無い。東北大学を例にとると東北地方を生涯巡航することになる。

学位審査権 †
私の父は昭和20年旧制医大を受験し不合格となり医専に進学しました。そして在学中に新制大学へ移行が決まり5年で卒業できるところを一年卒延して卒業しました。当時はそうして約半数の同級生が新制大学の卒業証書を手にしたそうです。裕福な家庭の学生が多かったとはいえ、戦後の混乱期に一年遅れてでも大学卒にこだわったわけですから、当時は医専卒と大学卒では格段の差があったものと推測されます。当時の概念では医科大学は医育機関の指導医官を養成することを主目的とし、医専は臨床医を養成するという棲み分けがありました。ちなみに旧制医大は予科3年、学部4年の7年制で医専は5年で卒業でした。
もうひとつ大学の格について論ずるに当たり重要なポイントを挙げておきます。それは「学位審査権」です。50年以上前の話で既に死語になっていますが「医学博士にあらずんば医師にあらず」と言われた当時の医師には最も重要な問題のひとつでした。というのは昭和35年頃までは医学博士の論文審査が全ての大学で出来たわけではなかったからです。新制大学に移行が決定した昭和23年頃は旧帝、旧六と京府医、私立旧四にしか認可されていませんでした。医科歯科や神戸大、新八などでも昭和30年頃まで、旧医専は35年頃まで学位審査権がなく新制大学の卒業生でも論文を審査権のある大学に持ち込み審査を受けるしかなかったのです。大学院も設置出来ませんでした。ですから医科歯科卒の日本大学医学博士や神戸大卒の岡山大学医学博士などが存在しました。当時の医師はほぼ100%取得しましたから大学の格の違いを嫌というほど刷り込まれました。いまだに旧帝とか旧六とか呼ばれるのはそのような背景があり封建的な医学界において当時の概念は50年以上連綿と続いているのです。学位審査権は昭和30年代前半まで私立の旧医専に限らず戦後設立された地方の国立医大や県立医大にもありませんでした。ですからこれらの大学と旧制医大の間には明らかに主従関係があったと言えます。旧医専(私立に限らず)は全ての医局員が取得する学位を人質に旧制医大から教授やスタッフを送り込まれ、人事面で植民地的に支配されていたのです。旧医専が母校出身の主任教授を出すことが出来たのは当時の教授が退官した昭和50〜60年頃からのことです
設立年の図と運営交付金 †
- 運営交付金は、最も多いのは東大の840億、ついで京大の560億と旧官立七帝大が続く。
医学部の立地 †
- 医学部の立地も実は格と関係しており、基本的に旧帝国大学>旧六医科大学>新制八医科大学>旧設国公立医科大学>>新設国立医学部の順である。旧帝や旧6は基本的に街の中心部にあり、新8は市内の中心部からやや外れているが一応市内にあるところが多い(医科歯科は別格で旧帝以上の立地である。その代わり狭いキャンパスだが)。また広島も街中にある。1番酷いのは新設で、市街地から10キロ以上離れているところが多く、大学の周りは田んぼだらけで夜はカエルや鈴虫の泣き声が聞こえる。旧帝旧6新8以外で立地が良いのは阪市、名市、神戸あたり。特に阪市は大阪の1大ターミナルの天王寺駅のすぐそばである(ただ医科歯科と同様にキャンパスは手狭だが)。神戸も神戸駅から近く学生生活は楽しいだろう。このように、基本的に伝統校ほど立地が良い傾向にある。
- ただし例外もあり、旧6でも千葉は千葉駅から1駅離れた本千葉駅から徒歩13分(車5分)かかるため、街の中心地にあるとは言い難い(千葉市内ではあるが)。また旧帝でも阪大は吹田市であり、大阪駅からかなり遠い(1993年に現在の場所に移転するまでは、大阪市の中心地で相当良い立地だったが)。旧設の岐阜も以前は市街地にあったが、移転でかなり遠く離れた田んぼだらけの場所になり、新設と変わらないレベルになった。ただ千葉と阪大に関しては中心駅から遠いものの、新設医や岐阜みたいに周りが田んぼという訳ではない。
- このように、例外※はあるものの、長い歴史を持つ伝統校ほど立地が良く学生生活を楽しめる(そしてそういう大学ほど進級が楽な傾向にあるので、尚更学生生活に響いてくるだろう)
各地域の医学部 †
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